杉文(NHK大河花燃ゆ)とは?生涯あらすじ【wikiよりわかる】

2015年NHK大河ドラマの「花燃ゆ」の主人公

杉文(すぎふみ 後に楫取美和子と改名):主演 井上真央

の一生と大河で描かれるイメージを紹介します。


テーマとどんな人物か?

前回の黒田官兵衛は分かりやすかったと思います。天下統一を成し遂げる豊臣秀吉の覇業を軍師として支える官兵衛。石田光成、徳川家康、織田信長の歴史上の人物、戦のシーンもふんだんに出てきて分かりやすかったです。

しかし今回の杉文さん、何度も取り上げられた幕末期ではあるものの自身で何か歴史的な事業を成し遂げた人ではありません。

簡単にいうと吉田松陰の妹さんです。

吉田松陰って誰だっけという人のために中学校の教科書でも出てくる有名な人物です。

幕末の長州藩の思想家。松下村塾という塾をつくって、のちに幕末で活躍する高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文・山縣有朋などを育てた人物です。

その吉田松陰がお兄ちゃんだったんですね。夫は幕末の志士の久坂玄瑞です。

ですがこの時代を生きた女性のほとんどがみなそうだったように、その一生は波乱万丈。兄の吉田松陰は安政の大獄で斬首。1人目の夫の久坂玄瑞は禁門の変で切腹。

夫はよそで子供をつくって(≧≦)、子はなかったので養子に入れた可愛がった子供でなく、あいじんの子が家を継ぐ。自分も嫁ぎ先を離れる。主君の毛利家の女中となって働いたり。大河では清々しく描かれそうですが実は苦労をされた方です。

幕末や明治維新の動乱、それを生き抜いた1人の女性の姿を描こうとしています。

幕末期の長州藩は江戸幕府から袋叩きにあったり、明治維新の立役者だったり激動な動きをしますがそれに翻弄されながら波乱万丈な一生を送っています。

杉文自身も再婚をしたり実家に戻ったりで一生のうちで合計5回も名字か名前が変わっています。

また偉大な兄の遺志を引継ぎ、他の兄弟姉妹で助け合いながら維新の困難な時代を乗り越えようとする杉家の物語、家族の絆も同時に描く。

さらに松陰を中心とした松下村塾の塾生たち 高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文など維新の元勲たちの群像劇を描いた作品となっています。

ひとことでどんな女性だったかといえば

「頭がよく男性の後ろを下がりつつそれを全力でサポートする器量がある女性」といえるでしょう。

2作前の大河「八重の桜」の新島八重が男勝りで銃をぶっ放し、戊辰戦争で戦ったり同志社設立に役割を果たしたりと社会的に活躍したのとはまた対照的です。夫や兄を一歩下がって支えつつ芯の強い女性だったことがうかがえます。

花燃ゆの大河ドラマでは大きく3部構成でストーリーが展開していきます。

1.生誕 ~ 最初の夫 久坂玄瑞との結婚まで

2.久坂玄瑞の死 ~ 主君毛利家に仕える

3.楫取素彦との再婚 ~ 死去まで

の3つになります。



1.生誕 ~ 最初の夫 久坂玄瑞との結婚まで


1843年 長州藩 毛利家 家臣の杉百合之助の4女として生をうけます。
1843年頃の日本の歴史は、まさに開国前の激動の時代にさしかかってました。
浦賀にアメリカ ペリー提督の黒船の艦隊が来たのは1853年ですから文が11歳の時です。

その後、幕府は日米和親条約をむすんで、下田と函館の港を諸外国にひらき、開国へと突き進むのでした。

さらにこの時代は江戸幕府の諸外国への対応の弱さっぷりが露呈して

「外国けしからん!外国から日本を守らねばならん!」という尊王攘夷運動がおきた時期でもありました。

日本の将来を憂える若者の1人に、文の兄 吉田松陰がいました。松陰と文は13歳差です。

兄の吉田松陰は神童と呼ばれるほど勉強が出来ました。9歳で藩公認の学校の先生をしたほどです。しかしただ勉強だけ出来たのでなく、行動力もありのちにその熱い思いが過激な行動に出ます。

「外国に打ち勝つにはまずその内情を知らねばならん」ということで

ペリー艦隊の船に忍び込もうとし密航を企てようとしたのです。

今の時代はパスポートさえあれば、気軽に海外旅行が出来ましたが江戸時代はちがいます。鎖国といって外国との一切の関わりを断っていましたからね。

北の国が脱北を許さないで罪になるのと似た感覚に近いと思います。

松陰は船に乗ることは断られ、捕まり、長州藩の牢屋の野山獄という場所に囚人になりました。やがて罪はいく分許され、杉家預かりとなりました。

おじさん玉木文之進がやっていた私塾の松下村塾を代わりに運営して教育者として
次代の若者を育てようとしたのです。

そして乙女となった文が、松下村塾の手伝いをする時に、夫となる久坂玄瑞と出会い、結婚があるんですね。



久坂玄瑞との出会い

文は14歳になっていました。昔の14歳といえば、15歳や16歳で元服といって男子は成人の儀式をしますから今の14歳とはちがいます。お年頃という奴です。

大人へと近づいた文は兄が運営する松下村塾の裏方のサポート役としてそれは熱心に働きました。

部屋の掃除、塾生のために食事をつくって食べさせたり、文がいないと塾の運営もこと欠きますから「松下村塾の裏の番長」と呼ばれ、年上の塾生たちも頭が上がらない存在でした(笑)。

その頃「年頃の文にそろそろ結婚させよう」と兄の松陰、兄と親しい友人である坊さんの月性は文の縁談を進めようとしてました。

なぜ周りが気をもんだかというと、文自身はあまり美しい女性ではなかったようです。
「首が太くて色が黒い」と月性が兄に忠告して早く結婚させないと嫁き送れるぞと忠告していたようです。

可愛い妹が幸せになってほしいと願うのは当たり前ですから、兄の松陰がめぼしい人物に「文をもらってくれんか?」と話をもちかけました。

最初は桂小五郎(のちの木戸孝允)。桂小五郎は断りたかったのでしょう。
しかし桂は要領のいい人物です。ハッキリと言いません。

「逃げの桂」とも呼ばれ、機を察するに敏な人物です。

のちに朝敵となって日本の敵だった長州藩の中で、京都で新選組の暗殺者リストの筆頭に数えられていたのに、変装をしながら巧みに逃げおおせたり。池田屋の変でも間一髪で出席を逃れころされずにすみました。

この時も「考えておきます」とひと言いってトンズラをこいて江戸へと行ってしまいました。ハッキリ断ると松陰に悪いですから煮え切らない返事をしてこの時も「逃げた」のです(笑)。

あとは桂自身は松陰の直接の弟子ではないので松陰も遠慮してたのだと思います。


次にもちかけたのが夫となる久坂玄瑞。

明治維新まで生きられなかったのであまり有名ではない人物ですが、長州藩の中では奇兵隊で知られる「高杉晋作」と並び称される才能のある人物です。

松下村塾に通う学生の中で「才能の久坂・知識の高杉晋作」として門下生の中で2大巨頭として頭角をあらわしていたんですね。

またのちに松陰が亡きあとは尊王攘夷運動の藩論の中心にたちました。

高杉晋作・久坂玄瑞・木戸孝允が長州藩の3傑だと僕は思います。伊藤博文や山縣有朋や井上馨は格下です。

松陰もその才能を高く買って「若手の中では随一の人物。志高くかつ学問もある」と評していました。


その久坂に文との縁談をもちかけたのです。

しかし結婚までに紆余曲折もあったんです。



文は久坂玄瑞に恋していた!?

どうやらそうらしいです。2人はまったく面識がなかったのでなく、有望な門弟の1人と先生の妹さんとして仲がよかったらしいです。

下のエピソードから次第に久坂に文は惹かれていき、やがてそれが恋心をもったようです。

塾の中で久坂が来ると文は顔を赤らめ、まっすぐ目を向いて話が出来なかったようです。

塾生もうすうすみんな察知し、「文さん、どうやら久坂君のことが好きらしいぞ」と噂にもなっていたようです。



エピソード

松陰の幽閉時代に知り合ったおなじ囚人仲間に富永有隣という人がいました。書道が上手で、幽閉されている中で松陰の字を直してあげたりしたんですね。

やがて有隣も罪を許され、書道の腕を買われて塾の先生の一人となりました。
別に重い罪をおかしたわけでなく、偏屈な性格で上司の悪口をいって獄につながれたようです。

しかしこの有隣、悪い癖があって教室の近くの庭先で立小便をする癖がありました。文が言ってもやめないので、久坂に相談しました。

久坂は一計を案じ、偏屈な先生だから注意しても絶対にやめないだろうから仲間4人を使って、先生の物まねをして一緒に庭先で用を足しました。

これを見てあまのじゃくの先生もさすがに生徒にわるい見本になってるなと感じ取りそれ以来やめました。

「頼りがいのある人だわ」と思ったのかもしれませんね。

塾生の中でも「1番に久坂に相談したんだから惚れてるんじゃないの」と思っていたようです。



久坂は縁談を最初は断った

こんな出来事もあってか、松陰は中谷正亮という年長の松下村塾の出資者の1人に「文をもらってほしいと久坂に言ってくれないか」と頼んだらしいです。

そして

中谷が「どうだろ、松陰の妹の文を嫁にしてくれないかの?」ともちかけたら

久坂はハッキリ断りました。

中谷はムッとして「何でだめなんだ、理由をぶっちゃけなさい」と問うと

久坂は「だって文さんがふべっぴんなんですもん」と顔が好みじゃないと断ったらしいです(笑)。

男性の僕としては何もこの場でコメントはしません。。。。笑

今の世でも似たような話はありますよね。

タイプでないが自分が勤める会社の社長のオーナー一族の娘と結婚できるか。
大学の研究室にいて指導教授の娘と結婚できるか。男としては迷うものです。
久坂はこの時は断ったのです。

しかし中谷はその理由を聞いて一喝します。

「久坂何を言っておる!嫁さんをもらうのに顔や見てくれで選ぶのか!それでも世に出て大事を成そうとしているのか!」と。

久坂も気乗りはしないものの、状況を受け入れて文と結婚することとなりました。

文が15歳。久坂が18歳。

松陰も弟子の中でも特に目をかけていましたから、この縁談を心から喜んでいました。

最初はこうであっても夫婦仲はよかったようですよ。文は久坂に惚れてますから夫をたてて献身的に支え、久坂も文を気にかけていました。

しかし時代はまさに幕末の激動期。

久坂は尊王攘夷派の若手の急先鋒として各地を駆け回り出張続き、さらに長州藩も中央政治の表舞台へと出ますから、穏やかな結婚生活とはいきませんでした。

夫婦がゆっくり過ごしたのは3か月程度でした。

そんな中やがて文に2つの大きな試練がやってくるのです。

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